礼拝とは、ただ集まるだけでなく「煙を立て」ないとならない。

上田彰 伊東教会 牧師(日本基督教団)より、翌日の教会週報に今回の様子を報告されたとお知らせをいただきました。転載許可を得ましたのでここに紹介します。

インターネットで、離れた地域の教会と双方向の礼拝を行うために(前編)

 一昨晩、インターネットによる礼拝配信技術の講習のつもりで出席していた勉強会で、思わぬ収穫を得ました。講師の方は長谷川忠幸牧師で旧約の専門家でもあります。進行役の片岡賢蔵先生達とのやりとりを再現します。

進行:礼拝配信を一方通行にしない努力を重ねておられることが分かりました。その取り組みの中で、私たちのインターネットを介さない普通の礼拝が、むしろ「一方通行」になっていないかという問いが生まれてくるのではないかとも思ったのですが。

司会:(旧約)聖書を読んでいくと、レビ記の中で礼拝は「カーラル」、携えて来るという言葉(その派生語が「コルバン」)で言われています。捧げ物が焼き尽くされて煙となり、(出エジプトの)雲の柱と一体化します。そこに神さまがおられる、という証しになる。礼拝とは、ただ集まるだけでなく、「煙を立て」ないとならない。それは現代で言えば、インターネットで一方的に観覧しているだけではだめだ、ということです。誰に向かって「煙を立てる」かを意識することで礼拝になる。誰に向かってなのか。それは自分たちの周りです。私たちの礼拝は「証し」なのです。

参加者:私は礼拝出席30名弱の教会で牧会をしていましたが、今は150名の教会にいます。戸惑うのは、礼拝出席者の中に「その他大勢でいたい」という人がいるということです。これも礼拝が「劇場観客型」になっているということでしょうか。

 私たちの教会はどうでしょうか。旧会堂以来、「雲の柱、火の柱」を礼拝堂オブジェとすることで「巡礼者と共におられる主」の象徴を重んじてきました。教会の先達たちは、「私たちにとっての教会」ということに満足せず、「主の教会」が大事だと捉えてきたのです。インターネット配信をするときに必ず乗り越えねばならない課題である「礼拝の私物化」と昔から闘ってきた、とも言えます。今回のような企画が、単なる技術披露ではなく信仰的交わりとなるのは良いことだと思います。

上田彰 伊東教会 牧師(日本基督教団)

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!

この記事を書いた人

テレビディレクターとして、テレビ東京系WBS(ワールド・ビジネス・サテライト)、カンブリア宮殿、美の巨人たちなどの経済・美術番組に携わり、国内外1000社以上の企業を取材。

その他、企業VPや、劇場公開映画の制作、キリスト教関連では「ドキュメント加藤常昭」などドキュメンタリー作品を多数制作。

2017年映像制作会社を退社、2021年3月、東京神学大学大学院卒業、現在、新潟市にある日本基督教団 東中通教会 伝道師。

目次