2025年5月3日 第1回目「シグニス動画フェスティバル」受賞作品発表&授賞式が開催されました。
第一部 授賞式の様子
第二部 トーク
↓受賞者や審査員の方々からのコメントの様子



↓オンライン参加の受賞者さま

↓配信ブース

ライブ配信は協賛団体のOBSBOTのAI自動追跡カメラで行いました。販売サイトはこちら https://obsbot.dpsj.co.jp
シグニス動画フェスティバルは、第2回も開催します!(応募期間2025年5月4日~11月30日)ふるってご応募ください。
NotebookLMに「第1回シグニス動画フェスティバル」トークを解説させてみた
テキスト
(AIによる要約版)
第1回シグニス動画フェスティバル
キリスト教系動画の可能性と表現について語る-第2部審査員トークより
2025年5月3日、第1回シグニス動画フェスティバルが開催され、その第2部として審査員によるトークショーが行われました。ホストを務めた片岡賢蔵氏(キリスト教動画伝道ネットワーク主宰、日本キリスト教団東中通教会牧師)に加え、審査員の酒井俊弘氏(日本カトリック司教協議会広報担当司教)、映画監督の岸本景子氏、松本准平氏が登壇。応募作品の講評から、今後のキリスト教系動画のあり方、映像制作の哲学、そして聖書の動画的な読み方まで、多岐にわたるトークが展開されました。
アマチュア作品が示した豊かな表現力
今回のフェスティバルに応募された作品は、プロではないアマチュアの方々によるものでした。片岡氏や松本監督は、プロでなくともこれほど豊かな映像作品が作れることに改めて驚きを覚えたと述べています。
特にシグニス大賞を受賞した「あの日の青島」におけるカメラの置き方が注目されました。中華料理店の中華テーブルの中央にカメラを置くというアイデアについて、松本監督は「すごい発明」と称賛。これは被写体である家族全員と等しい距離にカメラがあり、普段は見ない視点から、みんなを温かく見ているようなショットにつながっていると解説しました。このような作為的な芝居ではない、カメラが回っても変わらないありのままの姿を撮ることは、プロのドキュメンタリーでも難しいとし、それを実現した点を高く評価しています。
映像制作における「自然さ」の追求
カメラが入ると自然なものを引き出すのが難しいという話題から、岸本監督は自然なものを引き出すためには、カメラを長い時間回し続け、被写体にカメラの存在を忘れさせることがコツだと述べています。
酒井司教も自身の動画撮影経験から、撮りたいものだけでなく、自然に入り込む風景などをもう少し時間をかけて撮った方が良いと感じたと振り返りました。撮り慣れてくると、自分の立てたストーリーに沿って撮りがちだが、それだけでは不自然になることがあると反省しています。
松本監督は自身の哲学として、「全てを受け入れるつもりでカメラを置く」ことを挙げます。自身の意図しないことや考えてもいないことが映ることを期待し、神さまがその瞬間その場所で行われていることに希望を込めて撮ることが多いと語りました。そのためには、ひたすら「待つ」こともポイントになると付け加えています。
ナラティブ(物語)が持つ伝道の力
酒井司教は、今年のシンポジウムで最も印象に残った話題として、ナラティブ、つまり物語を通じて広報し、伝道していくことの重要性を挙げました。一人ひとりが持つストーリーを語り、聞き、また自分のストーリーを語るという行為は、国境を越えてオンラインでも可能であり、深いコミュニケーションと関係性を生むと解説しています。
映像表現を使うと、こうした「語る人がいて聞く人がいて、それが自分に返ってくる」という流れがよりリアルになり、映像の力は大きいと感じているそうです。その中で、罪のようなデリケートなテーマも自然と現れる可能性に、これからの映像表現に期待したいと述べています。片岡氏も、「あの日の青島」の制作者が語った「あの日に帰りたい」という思いのように、自分だけの物語を観る人と共有できるのは動画表現ならではとし、活字の物語が整えられがちなのに対し、映像には取り返しがつかない偶然的なものにも必然性を認識できるものを生む力があると語りました。
聖書を「動画の教科書」として読む
片岡氏は、聖書自体が動画的な表現を持っているのではないかと注目し、ヨハネ福音書20章のマグダラのマリアが復活した主イエスに出会う場面を例に挙げました。マリアが一度イエスを見ても(庭師だと思って)分からず、主イエスに名前を呼ばれた後にもう一度、振り向いた、合計2度、振り向くという描写に注目し、その理由を問いかけました。
監督たちは様々な推測を述べましたが、片岡氏は自身の解釈として、1回目は主イエスと向き合っても分からなかったが、2回目に主イエスの声を聞いた後に、もう見られなかったほどの畏れや驚き、あるいは条件反射のような反応があったのではないかと語っています。ガリラヤから共に歩み、十字架の死まで見届けたマグダラのマリアが、その親しい声を聞いて思わず反応し、直視できないままに主イエスの裾をつかむ姿が浮かび上がってくる、これはまるでドキュメンタリー作家のような描写であり、こうした描写にマリアの人柄や人間的な反応がよく現れていると解説しました。
酒井司教は、同じ場面で、マリアが墓の中にいた天使を全く無視している点を指摘し、天使の立場を考えるとかわいそうだが、そこにもマグダラのマリアらしさが現れていると言います。
聖書の記述は登場人物や、切り取られたフレームの中に入っているものに意味があり、不要なものは描かれないという、まるで映像制作における意図や排除のような視点で見ることができる奥深さを語りました。片岡氏は、聖書の表現は非常に豊かであり、少しのことに気づくと様々な意味が感じられるため、動画作りの教科書として聖書から読み取れるものがあるのではないかと提言しました。
映像におけるメッセージ性とは
松本監督は「映像で何かイデオロギーを主張することはできない」というゴダールの言葉を引用し、映像は純粋な思想や議論を伝えるのに向いていないと考えていると述べています。文字であれば思想を伝えることはできるが、映像は文字を持った人がいるという事実しか伝えられないというゴダールの考えに触れ、自身の制作でも自分の思想を直接伝えようとするのではなく、そこにあるものを映すことを心がけていると語りました。
現在制作中の長崎の原爆をテーマにした映画では、当初の脚本にあったセリフのほとんどを編集でカットしたことを明かしました。状況を見たいのに言葉が邪魔だと感じたためで、メッセージを直接語るのではなく、映像が語ること、受け手の解釈を信頼することの重要性を述べています。
初めて動画を作る方へのアドバイス
最後に、初めて動画を作る方々へのアドバイスが送られました。
酒井司教は、「あんまりきっちりやろうと思わなくても大丈夫」と語り、自分が撮りたいものを自分が撮りたい形で撮るのが良いスタートになるのではないかと提案。
岸本監督は、多くの人がスマホを持っているのだから、スマホカメラや、マイクを服に仕込むなど、身近にあるものを使って撮ってみることを奨励。応募作品に触れ、「よくぞ、この時にカメラを入れてくださった、おかげで見ることができた」と、撮り続けることの意義を強調しました。
松本監督も、最近は高価な機材を揃えなくても、スマホとアプリで編集が可能だと述べ、家族旅行や日常の中で見たものだけでも、十分に一つの作品につながると語りました。 このトークショーは、映像制作の技術的な視点、キリスト教的なテーマの表現方法、そして聖書や日常の中にある物語を映像で伝えることの可能性と難しさなど、多岐にわたる話題が語られ、来年の動画フェスティバルへの期待を語って締め括られました。映像メディアが持つ伝える力、見る人に気づきや共感を与える力の大きさを改めて感じさせられる、示唆に富んだ時間となりました。